吉野杉の家ダイアローグ 第4回 ヤマロク醤油 山本康夫さん

吉野杉の家ダイアローグ
第4回 ヤマロク醤油 山本康夫さん

  • 対談日時:2024年1月14日(日)
  • 対談場所:吉野杉の家

山本 康夫(やまもと やすお)

ヤマロク醤油株式会社 たぶん五代目(代表取締役)
1972年生まれ香川県小豆島出身
大学卒業後に家族経営の家業を継ごうと思うが、醤油屋は儲からないし、給料も払えないので継がなくていいと父親から告げられる。
地元の食品メーカーの営業職を経て、30歳を前に実家の醤油蔵を継ぐことを決意。
決算書を見て給料も払えないからと言われた意味を理解する。
必死になって働き、嫁の給料で生計を立てながら、どうにか家業から零細企業へ。
木桶仕込み醤油に特化しながら、子や孫の世代に『木桶による発酵文化』を残し伝えるため、2012年秋より木桶職人復活プロジェクトを始め、
醤油屋自ら『木桶」の製造を始める。

長谷川 豪

建築家
1977年埼玉県生まれ。2002年東京工業大学大学院修士課程修了後、西沢大良建築設計事務所勤務を経て2005年長谷川豪建築設計事務所設立。
2015年東京工業大学大学院博士課程修了(工学博士)。 ハーバード大学デザイン大学院(GSD)、カルフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)、メンドリジオ建築アカデミーなどで客員教授を歴任。
2005年SD Review鹿島賞。
2008年新建築賞など 受賞歴多数。
主著:
『考えること、建築すること、生きること』(LIXIL出版, 2011)
『Go Hasegawa Works』(TOTO出版, 2012)
『長谷川豪 カンバセーションズ』(LIXIL出版, 2015)
『a+u 556 Go Hasegawa』(a+u , 2017)
『El Croquis 191: Go Hasegawa 2005-2017』(El Croquis, 2017) など

長谷川豪さんをホストに、さまざまなゲストをお招きして対談していただく吉野杉の家ダイアローグ。第4回目のゲストは、瀬戸内海に浮かぶ小豆島より、代々、木桶仕込みの醤油をつくり続けるヤマロク醤油の山本康夫さんをお迎えしました。

小豆島は、400年以上続く醤油づくりの町。江戸時代以前は、酒・醤油・味噌・味醂などの調味料は全て木桶でつくられていました。ところが、明治期以降、近代化の流れで醤油はプラスチックなど、木桶以外の方法が主流となり、木桶をつくる職人の数が激減。「このままでは、日本から木桶でつくる醤油が消えてしまう」と危機感を感じた山本さんは、木桶づくりの技術を継承するため「木桶職人復活プロジェクト」をスタートしました。そして、その木桶の材料となるのが吉野杉です。

今回は山本さんに、木桶職人復活プロジェクトから、食にまつわる木の話を。木のある豊さ、吉野と小豆島につながる木桶醤油づくりの想いについて、お話を聞いていきます。 

日本から、木桶が消えてしまう。木桶復活プロジェクトの始まり

長谷川: この度はお忙しいところ、吉野までお越しいただきありがとうございます。

山 本: ありがとうございます。

長谷川: 山本さんに今回のダイアローグのお願いをしたところ、「まずは小豆島に来ませんか」と言っていただき、11月初旬に小豆島に行きました。僕は初めて小豆島に行ったのですが、ヤマロクさんの蔵を拝見する前に、盛大な前夜祭を開いていただき、美味しいお料理とお酒をご馳走になりました。小豆島の人ではない方も参加されていて、「木桶復活プロジェクト」を通じて全国にネットワークができていることを感じることができました。
まずはヤマロク醤油のご紹介と、どうして木桶のプロジェクトを始めることになったのかというあたりからお話いただけますか。

山 本 ヤマロク醤油は私で5代目と言っているのですが、結構いい加減な家系でして、記録が残されていないので、実際いつから醤油屋をやっているのかわからないんですよ。そこで、祖母の記憶をたどってみようと聞いたところ、「自分の爺さんは最初から醤油屋だった」と。「最初からということは、曾祖父さんも醤油屋やろう?」と聞くと、「会ったことないから知らん」と言うわけです。(笑)では、祖母の記憶のしっかりしているところから数えようということで、私で5代目になりました。実際はもっと古くからやっていないと辻褄が合わないのですが、記録がないのに江戸時代からと言ってしまうのは気が引けるじゃないですか。それで、5代目と名乗っております。

長谷川 なるほど。

山 本 うちはずっと木桶だけで醤油をつくり続けてきました。木桶でつくる醤油は日本全体の出荷量の1%くらいで、そのうち、使われている木桶の3分の1が小豆島で使われています。お味噌、お酢、みりんやお酒など、発酵調味料を昔はみんな木桶でつくっていたのですが、圧倒的な数を醤油が使っているんですよ。ですから、木桶の発酵文化を次の代に残すのは、醤油が中心になって動かないといけないなという思いは昔からありました。私が家に入って醤油をつくり始めるようになると、そのうち、使っている木桶の数が足りなくなってきて。新桶をつくってくれるところを探したところ、醤油用の木桶をつくるのが大阪の藤井製桶所さん1社しか残っていないというのがわかり、そこに新桶を発注しました。

長谷川: それがいつのことですか?

山 本  2009年です。その時、「醤油屋から新桶の発注が来たのは戦後初」と言われたんです。藤井製桶所さんは、桶だけでは食べていくことができないので、本業は木工所で色々なものをつくりながら、中古の桶の組み直しをして、技術だけは残してきたらしいんですね。その時、自分のところは2020年に廃業するから、桶が壊れたら自分で直すようにと言われてしまったんです。このまま、桶をつくれる人がいなくなってしまったら、日本から木桶が消えてしまう。そうすると、日本の食卓から本物の醤油がなくなってしまう。それはマズイと思って。そこで、その3年後に3本発注して、同級生の大工の坂口直人に「ちょっと桶つくりに行かんか?」と誘って、半分騙した感じで連れて行ったんです(笑)。

長谷川 直人さんはその時点では建築の大工を?

山 本 大工です。私の自宅も建ててもらったばかりで、ちょっと手が空いた時に一緒に行きました。その時、藤井製桶所さんに発注した木桶3本をそれぞれ違う工程で止めてもらい、その3本を使って、木桶の全行程を教えてもらったんです。そして、2013年の9月に小豆島で自分たちだけで新桶をつくろうというので、1本つくったのが木桶復活プロジェクトのスタートとなりました。

小豆島の気候風土から生まれた醤油づくり

長谷川: そもそも、なぜ小豆島では醤油づくりが盛んになったのでしょうか?

山 本 元々は塩づくりから始まったと言われています。江戸時代、塩の最大の産地が兵庫県の赤穂にあり、そこから移住してきた人たちが小豆島で塩をつくり始め、日本で2番目の産地になりました。

長谷川: なんと、小豆島が全国2位。

山 本: はい。島塩と言って、ものすごく高く売れたらしいです。ところが、技術が伝播して、海岸線でいろいろなところで塩づくりが広がっていくと、塩の価格が暴落したんです。では、この塩を使って何かつくろうということになり、醤油がつくられるようになりました。それは、当時の交通は、海運がメインだったので、九州から大豆を、香川讃岐から小麦を運んで来られたんです。発酵に適した気候と、各産地から良い原料が手に入ったので、良い醤油をつくって大阪に売りにいく。江戸時代から小豆島は品質管理をしていたので、小豆島の醤油が美味しいとなって売れていくんです。明治の初めには、醤油屋が400社あったと言われています。
ところが、そのうちに、醤油屋が増えすぎて今度は効率が悪くなって、合併が始まるんです。大きい醤油屋さんの5社が合併して、今の丸金醤油さんができました。それが110数年前のこと。その流れで、今は小豆島に20社あります。

長谷川: あの島に醤油屋さんがいまも20社あるというのは凄いですね。小豆島のどういう気候が発酵に適しているのですか?

山 本: 温暖で乾燥しているところ。オリーブとか、素麺もそうです。小豆島の特産品は気候から生まれたものが多いですね。

長谷川: そう言われてみると、オリーブ畑が広がっていて、どこか地中海に似たような風景ですよね。

小豆島

長谷川: その後、小豆島の醤油も木桶ではない方法でつくられるようになったのですか?

山 本: そうですね。ただ、圧倒的な数の木桶が小豆島に残っているのは事実です。なぜかというと、戦後の高度成長期に、木桶で醤油をつくるのをやめるようにとGHQから発令が出た。「戦後の混乱期に日本人に絶対食品である醤油と味噌が供給できないと暴動が起きる。なので、みんなが木桶できっちりつくっていると時間がかかるのでやめるように」と言われて、中小企業近代化促進法ができて、工業化して大量生産するように進められていきました。それでも足りないので、工業的につくった醤油を塩水で増やして、アミノ酸液で調味液を入れて味をつけて、カラメル色素を入れる。そういうお醤油は腐るので、保存料を入れる。醤油というものが、一気に変わってしまった。 ただ、その時、小豆島は工業化に踏み切らなかったんですよ。というのが、小豆島は天然醸造の醤油屋さんが多いので、地域に菌がたくさんいます。安定して木桶で発酵できる状態が保たれている。先ほどの話にもあった、丸金さんが木桶で大量生産化していたので、工業化に踏み切る必要がなかったんです。そうすると、今度は工業化された醤油に市場が奪われ始めました。そこでようやく、これは危ないということに気がつき、1年後に工業化を始めました。小豆島の醤油屋さんが集まって出資をして、島醸さんが工場をつくり、タンクで生産を開始するのですが、同時に「木桶を持って来い」と言って、木桶とタンクと両方で大量生産するんです。そうやって木桶を残しつつ大量生産をしたので、小豆島には木桶が残った。うちは島醸さんに出資したり、自社でタンクを導入するお金もなくて、木桶を使い続けました。そうやって、大量生産に踏み切るところと踏み切らないところ、その両方で小豆島には木桶が残されたわけです。

木桶でつくる醤油は旨い

長谷川: 木桶でつくった醤油と、戦後にコンクリートやホーロー、FRP(強化繊維入りのプラスチック)などでつくられるようになった醤油と、どのように違うんでしょうか?

山 本: これね、旨いんですよ。全国の木桶でつくっているお醤油屋さんみんなの共通認識で、やっぱり木桶でつくると旨い。なので、今でもみんな木桶を使ってつくり続けているのが正直なところです。それと、蔵ごとに特徴が出ますね。工業的につくると、単一の菌を培養して1種類から数種類添加して発酵させるのですが、うちだと蔵に110種類ほどの菌がいるらしい。50種類くらいから200、300という蔵もあります。木は多孔質で、菌のすみかになるため自然の生態系が生まれ、それが蔵独自の味や香りをつくっていくというのが木桶の醤油なんです。あと、最近よく思うのは、蔵の社長の性格に醤油の味が似てくると思いますね。

長谷川: 社長の性格(笑)。それはヤマロクさん以外のところも?

山 本: うち以外でもそうです。わかりやすいのが、うちと正金醤油さんは、醤油に必要な麹菌をつくる室(むろ)を周辺の醤油屋9社で協同組合をつくって管理しているため、大豆や小麦の原料や産地はほぼ同じものを使っています。同じ室で、同じ種麹菌でつくるので、麹はほぼ同じ。それがうちの蔵で仕込むか、正金さんに仕込まれるかで味が違う。うちの蔵で仕込むと、濃いのしかできない・・・。正金さんで仕込むと、昔は濃かったんですよ。ところが、10年くらい前に代替わりしたところ、今は薄口がメイン。

長谷川: 正金醤油の今の社長さんはどういう方なんですか?

山 本: 謙虚で控えめな方なんです(笑)。そうすると、和食の料理人がものすごく使いやすい、素材の味を生かせるお醤油ができるんですよ。うちは濃すぎるんで、ちょっと自己主張しすぎて料理人には使いづらいらしいです(笑)。その代わり、うちはスーパーで売っている特売の安い豆腐をおいしく食べられる醤油です。

長谷川: 「鶴醤」は東京のスーパーにも並んでいて、よく使わせてもらっています。美味しいです。

山 本: ありがとうございます。

長谷川: 「鶴醤」は山本さんの代になってからの商品ですか?

山 本: 親父の時からあるのですけど、明らかに僕の代になって濃くなりました。親父の代から、一般的な再仕込み醤油より2割、1割くらいうまみ成分も高かったんですが、私の代になってさらに1割以上濃くなって、とんでもない濃い醤油になっていったんです。多分、菌の生態系の質というか、性格が変わってくるんだと思うんですよね。

長谷川: 菌の性格が変わってくる。面白いですね。

山 本: うちは観光客の受け入れをしているのですが、人が桶の上に行くと、発酵している時に出るプチプチという音が大きくなるんですよ。菌は人が来ているのがわかっているんです。そして、女性が来ると大きくなるんですよ。

長谷川: ははは!ヤマロク醤油の菌は女性好き。

山 本: だから、女性がたくさん蔵に見学に来て、桶やモロミを見るとおいしくなるんですよ(笑)。

長谷川: でも、その話はなんとなく信じられます。僕もヤマロクさんの一番古い蔵に入った瞬間に、ちょっとオカルトな表現になりますが、大勢から見られている感じがしたんですよね。

山 本: 菌が長谷川さんをじっと観察していましたね。

長谷川: 蔵の中には山本さんしかいないはずなのに、四方八方から見られているような・・・。自分は建築設計の仕事をしていて、仕事柄、古今東西のいろいろな建築を見てきましたが、これまで経験したことのない感覚でした。特に150年ものの木桶には、ビッシリと菌がいるのが見えて。実際には肉眼で見えるはずはないのですが、そう感じました。でもひょっとしたら、ああいう感覚を昔の人たちは当たり前に持っていたのかもしれない。20世紀初頭に近代建築は、菌を含む他の生物を室内から徹底的に排除しました。それ以降、人間は潔癖な空間に飼い慣らされて、菌との対話ができない身体になってしまったと言えるかもしれません。

蔵内部
150年ものの木桶

山 本: 私は、微生物には意識があると思っていて、桶の上に人が来ると、それが分かっているような気がするんです。菌を研究する人にそういうことを言うと、「そんなことないだろう」と笑われるのですが。でも、菌は集まると集団行動をとるという研究もあると聞きます。
醤油をつくるのは、人間じゃないんですよ。微生物がつくってくれている。醤油づくりで職人にできることは、微生物のすみかを整えるだけ。そのすみかが木桶なんです。

長谷川: 微生物のすみかを整える。良い言葉ですね。

木桶のプロジェクトで、世界を目指す

長谷川: 蔵から出ると、海外に出荷する予定の醤油がたくさん並んでいて、スタッフの方が忙しそうにされていました。海外からの需要は増えてますか?

山 本: 増えてきていますね。木桶のプロジェクトは、国内で1%しかない市場を奪い合うのではなくて、みんなで1%を2%にしようということから始めました。いろいろなメーカーを集めて、一緒に木桶をPRしながら、「競争は品質で」ということにした。すると、木桶のプロジェクトにどんどん人が集まってきたんです。考えてみると、集まってきた人たちは、みんな食のスペシャリスト。そこで、桶をつくるだけじゃなくて、食について語り合おうと、木桶のサミットを始めました。
第1回目の時に、最後に車座になった時に「日本の1%から2%を目指すのと同時に、世界の1%をとりに行こう」と宣言したんですよ。その時に、プロジェクトに参加している醤油屋さん全員が同じ方向に向いた気がした。サミットの1回目のあの時が、木桶の転換期になったなと今では感じています。
というのも、地方の醤油屋さんは基本的に地元が商圏なんです。例えば人口50万の都市に醤油屋さんが5社あると、木桶とタンクの醤油で価格競争する。人口が減っている地方は市場がシュリンクしていきますよね。みんな苦しいのですが、1社が廃業すると、残りの4社がその分を奪い合う。それでなんとか現状維持というのが、今の地方の醤油屋さんの現状なんです。そこで、世界の1%を目指すと、市場が50万の都市から70億80億に一気に広がります。醤油は日本では日常品ですが、海外では嗜好品になるため、高くても売れる。海外のマニアの心を捕まえられると、世界で経営が成り立つんですよ。

長谷川: なるほど。

山 本: つまり、醤油屋が生き残るのは、地元を商圏にするのではなくて、海外で正当に評価されて、適正価格で買ってもらえる仕組みをつくること。利益が上がると、うちに桶の発注をして、木桶の職人に仕事が生まれる。さらに醤油をどんどんつくって、世界の1%や日本の2%を取ることができると、消費者にとっては本物を味わう機会が増えていく。そうやって、生産者、木桶の職人、消費者という三方良しのウィンウィンの仕組みをつくるのが、木桶のプロジェクトです。

長谷川: 木桶全体で海外を目指しているんですね。実際に、僕が見学させて頂いたときも、ヤマロク醤油に外国人のグループがダッと押し寄せて来ていました。あんなのしょっちゅうだよとおっしゃられていましたが、だいたいどれくらいの方がいらっしゃるのですか?

山 本: 今、海外からだいたい年間インバウンドが1万人くらい見学に来ます。

長谷川: すごい。どうしてですかね?

山 本: これ、うちの醤油が海外で評価され始めたんですよ。それは、うちがいろんな情報発信をするんですよね。海外のメディアや、インバウンドで来た人が動画を撮ってyoutubeに流したりするんですよ。以前、ウォール・ストリート・ジャーナルの一面に紹介されたことがあって、その記事の内容が「オリーブオイルやコーヒーは日の目を見た。世界中の富裕層がワイナリーを廻るように、日本の木桶の醤油の醸造所を富裕層が見学に廻る時代が来る」という記事が出たんですね。この記事が2019年の11月末くらいに出て、その年明けからコロナが始まった。ロックダウンで世界中の人が家から出られない時に、うちからどんどん情報発信をしていたので、「コロナが落ち着いたら日本に行きたい、木桶の醤油蔵を見たい」という人が増えました。というのも、ロックダウンで街に出られない時に、楽しみは食事くらいなので、その間に和食に挑戦しようとか、家で料理を楽しむ人って増えたと思うのですよね。コロナの間に海外の売り上げがズドーンと伸びたんですよ。

長谷川: コロナで確かに料理する人が増えましたからね。面白い。

山 本: コロナがなければもっと日本に木桶の醤油蔵を見学に来る人が増えたと思うのですが、逆にコロナの間に情報を流し続けることによって、コロナ明けで人が流れてくるような仕組みが、特に欧米人の間で出来上がりました。

長谷川: 欧米人は、やっぱりワインなどの嗜好品の文化があるから、木桶の醤油に興味を持ちやすいというのもあるでしょうか?

山 本: そうですね。木の容器で発酵熟成するってワインと一緒だねって理解が早いんですよね。海外で醤油をソイソースって言われるので、ソースのように工場でいろいろなものを混ぜ合わせてできていると思っている人が結構いるんです。日本でも若い人では、発酵食品という理解されていないことも多いですね。なので、我々は木桶醤油でブランディングしたい。木桶で発酵と結びついた時に、欧米人からはワインと一緒になるんですよ。そうすると高くてもいいものを工業的につくるのは一般普及品で、木の容器で発酵熟成すると、その蔵独自の味香りになって良いものになる。高く評価してくれるので、そうすると嗜好品として理解してもらえる。最近は、海外の食品表示がソイソースと醤油で半々くらいになってきているので、だいぶ「醤油」というものが認知されてきましたね。

100年後の木桶のための木を今からつくらないといけない

長谷川: 木桶は吉野杉を使われているのですよね。これはなぜなのですか。

山 本: 全然違いますよ。

長谷川: そうですか。

山 本: 吉野杉は、すごい。木桶の師匠の藤井製桶所さんが、「木桶をつくるなら吉野杉が最適」と言われていて、最初からうちは吉野杉でつくることになりました。桶を習いに行って、人生初のかんなを掛けたんですよ。

長谷川: 普通の醤油屋さんは、かんな使わないですからね(笑)。

山 本: 杉にかんなをかけるとシュッと通るんです。一緒に習いに行った大工の直人は、「普通、杉はこんなきれいにカンナ通らないからな」と。私は杉のスタンダードは吉野杉から始まっているんですよ。「こんなに目の詰まった無節の材なんかない」と、直人はずっと言っていて。で、他の産地の杉を試してみて自分も初めて気がついたんです。全然違った。だから、昔から灘や伏見の酒樽は吉野杉でつくられていたのはそういうことなんです。

長谷川: 杉って、他の産地によっては、色の黒い杉もある。吉野杉の場合は、例えお酒に色がついたとしてもきれいな色で、吉野杉でつくった桶はお酒と相性が良かったから吉野杉が選ばれたらしいですが、桶の加工のしやすさもあるんですね。

山 本: 全然違いますね。

長谷川: 桶づくりは本当に高い精度が求められて、0コンマ何ミリの調整をしていくそうですね。

山 本: ミリ狂うと中の醤油が漏れて桶として全く使えないものになってしまう。それを正確に加工しないといけないのですが、精度よく削りやすいのはダントツで吉野杉です。

長谷川: そうなると、木桶の部材は吉野材のなかでも特別なものを用いるのですか?

山 本: 吉野杉の中心部分の「赤身」と、周囲の「白太」の間に白線帯と呼ばれる層があって、アルコールを通しにくくなります。お酒はもちろんですが、醤油にもアルコールがあるので、即板のなかに白線帯を入れていきます。「甲付(こうづき)」と呼ばれる特殊な部材で、杉1本から取れる分量は4枚くらいですか?

石 橋: 4枚だと難しいですよね。だいたい3枚だけですね。

甲付

山 本: さらに、底板は赤身で三面に無地。接地面と底に節がない方が良い。でないと、漏れてしまう。

石 橋: 底板はものすごい特級品ですね。芯を外して、全て赤身の材で節がないもの。

長谷川: 桶の寿命はだいたいどれくらいですか?

山 本: 自分でつくってみて分かったのですが、材料の良し悪しと職人の腕によります。本当に良い材料で良い職人がつくると、やっぱり200年以上は使います。

長谷川: これだけ木桶が盛り上がったら、吉野林業にも影響がありますよね。石橋さん、桶の材料の発注は増えていますか?

石 橋: 増えてますね。今も変わらず建築が多いのですが、そのうちの10%くらいが桶ということになると、すごく影響が出てくると思いますね。吉野の林業の仕方は密植林業なので、高密度に木を植えて木材がつくられてきました。それはなぜかというと、木桶や樽に使う、無節で密の細かい木の質をつくるためには密植が欠かせないんです。でも、ここ20年くらい、密植というのができていません。一般的な林業で1haに2000本から3000本植えるところ、吉野林業の場合は1万本植えます。そのため、それだけの費用が出てこないんです。昔は木を売って、売った分だけたくさんの利益が出て木を植えるというサイクルができていたのですが、それが今の林業では難しくなってしまった。つまり、この20年間、本格的に密植が進んでいないということは、これから先、木桶に使える木がなくなってしまうというのが見えています。僕たち林業側としては、100年後の木桶のための木を今からつくらないといけない。

長谷川: そうですよね。木桶に使われる木は、大体樹齢100年くらい。とすると、その木を100年育てていかないといけない訳ですね。

石 橋: そうなんです。ただ、木を植えて、使えるのが100年後では、利益がすぐに出ないので商売として成り立たない。その間にどうやって木を利用していくのかというのを、僕らだけじゃなくて実際に使っていただく多くの方々と一緒に、育んでいくしかないのかなと思っています。

吉野中央木材 石橋

長谷川: 建築材と桶材だと、どちらが高く売れるのですか?

石 橋: 桶材です。

長谷川: それはやっぱり桶の場合は、木材のなかでも大トロの一番良いところを使わないといけないからですか。

石 橋: 本当は建築でも、良い部材をその価格で使って欲しいのですが、建築は桶のように四方節がなくても建物が壊れることはない。さらに、壁に埋まってしまうので外にも見えない。その価格があってその品質ができているのに、価格だけが下がってしまった訳です。木桶の場合は、漏れないように品質が絶対的に必要なため、品質と価格がちょうど一緒になるんです。

長谷川: 原木市場でも、昔はもっと高かったというのを皆さん言っていますよね。

山 本: 僕も吉野の方へ来させてもらって、原木市場を見せてもらったんですよ。そしたらこんなに安いものかと驚きました。長い時間をかけてつくられた材木を山から伐り出してきている訳ですから。これは、正当な値段で桶材を仕入れて、それを醤油屋は正当な価値で評価してくれるところに売って利益を上げて、桶代をペイしていけば良い。みんながプラスになる仕組みをつくらないと続かないと思うんですよ。この醤油には、きちんと育まれた木の長い年月があってつくられるものだから。

長谷川: しかしそう考えると、吉野杉が日本の食文化を支えていると言っても過言ではないですね。

山 本: そうですよ。発酵調味料は全て桶だったんです。醤油、味噌、お酢、みりん、お酒は木桶でつくっていたんですよ。和食の基礎調味料ですよね。和食が世界遺産になってる今、基礎調味料は工業品なんですよ。本物を支えているのは木桶なんです。

石 橋: 僕たちも、そろそろ動き出そうと思います。木桶用の木の植林を、今年から始めるつもりです。

木桶の発酵文化と醤油づくりは、人づくりから

山 本: 木桶のプロジェクトは今、若い世代が多いんです。最初は父親の世代が参加していたのですが、木桶の醤油が売れてきて、息子が戻ってくるという現象が起きています。ある醤油屋さんは、もう自分の代でやめようと思っていたら、木桶の醤油が売れ出して、息子が帰ってくると言い出すので、蔵まで建てようかと話しています。蔵は建てる、息子が帰ってくる、いろんな良い循環に回り始めていて、今、そこがものすごく面白いです。

長谷川: 今やどの業界でも後継者問題が叫ばれているなかで、木桶の影響力は凄いですね。そういえば、ヤマロクさんの新しい蔵もみせていただきましたが、吉野杉で建てられていて。蔵で吉野杉が使われるって、ないですよね。

山 本: 実は狙いがあって。1月に桶をつくりに醤油屋さんが集まる時に、建設中というのをわざと見せるんです。ヤマロクは木桶の醤油が売れ始めて蔵まで建てる、と見せると、市場が気になり始める。そうすると、「よそはどんどん醤油が売れてた。うちも、建てるか」という感じで、蔵から建てると言い出したところが6社あります。

長谷川: 6社も。

山 本: はい。2、3年前から木桶のプロジェクトを「脱ヤマロク」にして、全国の木桶の醤油屋さんみんなのプロジェクトに変えていこうとしています。海外を目指して木桶仕込み輸出促進コンソーシアムと一般社団法人をつくって海外に木桶醤油のブランディングとPRをしているのですが、若手に役割分担をさせて、その上に親の世代をアドバイザーとして入れています。そうすると、コンソーシアムの補助事業をやることによって、自分たちが成長しているのをみんなが実感し始めたんですよ。そして、この息子たちが10年後くらいに中心になった時に、また次の世代につながっていく。木桶や発酵の文化というだけではなくて、各メーカーの代でそれぞれ人材育成していく仕組みをみんなでつくっていこうと思っているんです。毎年3月に東京で開催されるFOODEXはどんどん成長したのがわかって、去年は最後片付け終わって反省会した時に、若手の成長ぶりにウルっときて泣いちゃいました。そうやって育っていくのが、見ていて面白いですね。
私、いつも言っているのですが、みんなで「オモロいこと」をやるということに決めています。オモロいか、オモロくないかで、やるかやらないかを決める。そうすると、自然と人も集まって、同じ方向に向かっていくんですよ。

長谷川: 今日、お話を聞いて、木桶のプロジェクトが盛り上がっている様子、そしてそれが次の世代につなげられているのがすごく良くわかりました。みんなで面白がってやっている。見ていて面白いから巻き込まれたくなる。
僕は、この吉野杉の家がきっかけで8年近く吉野に関わらせてもらっていて、最初は建築や家具に使われるための吉野材だと思っていたのですが、山本さんのお話を聞いて、木桶を通じて日本の食文化にも深く関わっていることが分かりました。食卓に欠かせない醤油の本物の味を生み出すのが吉野材であると。
建築で「この柱は良いでしょう」と言ってもなかなか伝わりにくいけれど、「この醤油の味はうまいでしょう」は誰もが分かる。だから逆に言えば、美味しい醤油をつくるために欠かせない木だ、という話は伝わりやすいのかもしれない。その木は100年以上育てた良い木でなくてはいけないのだから、やはり多くの人に価値を理解してもらうことが重要です。木桶の醤油がこれから国内や海外でどんどん広まって、林業にも影響を及ぼすくらいになって欲しいですし、小豆島と吉野で、この先も面白いことが起こっていくことを楽しみにしています。今日はどうもありがとうございました。