吉野杉の家ダイアローグ
第5回 丸林業 平井雅世さん

丸林業平井雅世さん 長谷川豪さん

吉野杉の家ダイアローグ
第5回 丸林業 平井雅世さん

  • 対談日時:2024年12月6日
  • 場所:吉野杉の家

平井 雅世

林業家
1964年奈良県生まれ。
1987年帝塚山学院大学英米文学部卒業。チャイナエアライン航空で客室乗務員として4年間勤務の後、結婚して栃木県に居住。
2004年宇都宮大学大学院国際学研究科修士課程を修了し、東京農工大学大学院連合農学研究科博士課程に進学。
2008年博士(農学)を取得。
2009年より、宇都宮大学農学部附属里山科学センター特任研究員、雑草と里山の科学教育研究センターコーディネーター、宇都宮大学3C基金事務局特命学長補佐を歴任。
2020年吉野郡川上村で家業の林業に従事するために帰省。現在、丸林業で吉野固有の山守の仕事を学び実践しながら、2024年より吉野かわかみ社中副理事長を務める。

長谷川 豪

建築家
1977年埼玉県生まれ。
2002年東京工業大学大学院修士課程修了後、西沢大良建築設計事務所勤務を経て2005年長谷川豪建築設計事務所設立。
2015年東京工業大学大学院博士課程修了(工学博士)。 ハーバード大学デザイン大学院(GSD)、カルフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)、メンドリジオ建築アカデミーなどで客員教授を歴任。
2005年SD Review鹿島賞。
2008年新建築賞など 受賞歴多数。
主著:
『考えること、建築すること、生きること』(LIXIL出版, 2011)
『Go Hasegawa Works』(TOTO出版, 2012)
『長谷川豪 カンバセーションズ』(LIXIL出版, 2015)
『a+u 556 Go Hasegawa』(a+u , 2017)
『El Croquis 191: Go Hasegawa 2005-2017』(El Croquis, 2017) など

長谷川豪さんをホストに、さまざまなゲストと対談を行う「吉野杉の家ダイアローグ」。第5回目のゲストは、吉野郡川上村で「丸林業」を営む、平井雅世さんをお迎えしました。

これまでさまざまなゲストをお招きし、多様な視点から吉野や木にまつわる話を伺ってきましたが、吉野林業の、言わば本流からゲストを招くのは初めてのこと。川上村は吉野林業発祥の地であり、室町時代に造林が始まったとされる世界最古の造林地でもあります。500年以上続く歴史を持つ吉野林業を、今、人々はどのような想いで受け継ぎ、次の世代につなげようとしているのか。これまで出身地を離れて暮らしていた平井さんが、家業を継ぐために再び吉野へ戻り、林業に携わるようになった背景から、その歩みと、林業の未来についてお話を伺います。

田舎の生活が窮屈で。吉野から出たいと思い、航空会社へ就職

長谷川:この度は、お引き受け頂きありがとうございます。

平井:ありがとうございます。

長谷川:昨日、平井さんに初めてお会いして、今朝は丸林業さんが管理する川上村の山を案内していただきました。そのなかで、平井さんの半生を大変興味深く聞かせてもらいました。僕はこれまで吉野林業に携わる多くの方にお会いしてきましたが、そのほとんどが林業一筋で歩んで来られた方たちで、そういった方々のお話ももちろん魅力的なのですが、平井さんは異なる道を歩まれた経験を持ち、これまでとは違った視点で、現代の林業の課題を捉えられているように感じました。

平井:そう思われましたか。

丸林業平井雅世さん 辻木材商店辻さん 長谷川豪さん

長谷川:はい。今回平井さんをダイアローグにお迎えしたのは、吉野杉の家の運営メンバーである辻健太郎さんが、丸林業に関わるようになったことがきっかけです。後半は辻さんにも入ってもらってお話したいと思っていますが、まずは平井さんのユニークなバックグラウンドについてお聞かせいただけますか。

平井:私は、5歳までは川上村の中奥という場所で過ごしました。

長谷川:先ほど伺わせていただいたご実家で育った。その後は?

川上村

平井:それからは大阪市内で育ち、幼稚園から大学まで一貫校に通っていました。私の下に弟が2人いて、3人兄弟。父親は非常にしつけに厳しくて、大学生になっても門限は10時。そういった家のしきたりを守りながら、いわゆる、お利口に生きてきたタイプだったと思います。父は大阪に住みながら、橿原の会社と山の仕事をするのに行ったり来たりする生活で、私たち家族は、お盆やお正月など長期の学校の休みに必ず吉野に帰ることが決まりになっていました。父が16代目を継いでおり、吉野に戻ると親戚や関係者が家に集まり、大人数でにぎやかに過ごしていたのを覚えています。

長谷川:大学生になられた平井さんはどのような方向に進まれたのですか?

平井:大学の頃は、そういった環境が息苦しくて(笑)。当時は村にもまだ人が多くて、家を出入りする職人さんも大勢いらした時代。それに、ご近所や親戚など、田舎特有の「常に誰かに見られている」感覚が強かったんです。その分、地域の温かさや守られている安心感もありましたが、私にはそれがすごく窮屈で。「家を出たい」という気持ちが強くなりました。そして、「家を出るには飛行機に乗る仕事がいいなあ」という考えで、航空会社を受けることにしました。でも国内の航空会社は落ちてしまったので、父には内緒で、母にこっそり家を出してもらい、外資系の航空会社を受けるために東京へ。チャイナエアラインに就職が決まり、父も渋々「3年したら帰る」という約束で、台湾に住みながら働きました。台湾といろいろな都市を巡る生活は自由で楽しくて帰りたくなかったのですが、父から何度も「いつ帰るんだ」と言われ続けて。根負けして、約束の3年を過ぎた4年目に帰国しました。 それから1年ほど大阪で英会話の子供の講師をしていましたが、ほどなくして農学部で研究をしている主人と出会い、結婚しました。

丸林業平井雅世さん長谷川豪さん

アジアの辺境地で、どのように経済が成り立つのかを研究

長谷川: 旦那さんは大学で何の研究をされていたのですか?

平井:宇都宮大学の教員で、土壌の研究をしていました。ちょうどその頃、主人の研究の一環で、タイで「森林や水源地をどう守るか」をテーマにした国際協力プロジェクトが立ち上がり、私もプロジェクトの会計の管理を頼まれてタイの奥地に同行することになりました。電気もないような辺境の地に行って、「こんな場所があるのか」とカルチャーショックを受けました。そこでは焼畑農業が主流で、森林がどんどん失われ、土壌浸食が進んでいる状況。そこで、山から水を引くというプロジェクトを主人が始め、今までは森を焼いていたものを、山から水を引くならやはり木を残さなければいけないということが分かって。すると、その集落に住んでいる村人たちは山だけは焼かないようになったんです。生活用水を守る水源林として、山を守るようになった。
最初の村で成功すると、隣の村も「うちにも水を引いてほしい」となり、プロジェクトが広がっていきました。村人たちからも感謝されて、7年ほど経った時に、こういった国際協力のプロジェクトは短期的なもので、結果的にその地域に何が良くて悪かったのかという「功罪」を残せずに終わってしまう。それでは継続的な発展につながらないから、「功罪をまとめて欲しい」と主人に頼まれ、そのために「大学院に行ったらどうか」と勧められて、主人の所属する宇都宮大学の国際学部に入学したんです。授業を受けながら、功罪をまとめるために、その地域に居住する山地少数民族「モン族」にインタビューをして修士論文にまとめたところ、今度はその民族自体にのめり込んでしまって、そこから農工大に入って博士課程まで進むことにしました。こうなったら「行っちゃえ」ということで、当時小さかった子供も連れて、バンコクから北タイに飛行機で行き、そこからさらに奥地へ進んで、ラオスの国境近くまで調査に行きました。

丸林業平井雅世さん

長谷川:それは、旦那さんとは独立したプロジェクトとしてですか?

平井:主人のプロジェクトは、その後も、その民族の文化の継承や子どもの教育支援など、水供給設備のフォローアップを行いながら継続し、私はそれらのプロジェクトを手伝う一方で、自分の研究を行いました。そこでは、一軒一軒まわって、人の家の家計をずっと調べて行きました。今年の収入はいくらで、何を植えて、そこからいくら肥料代がかかって、いくらで売れたかということをヒアリングしに行く。どういう土地で、どういう生計を立てているかというのを知りたかった。そこでは、村落共同体というものがしっかりと成立していって、例えば、主人のプロジェクトで水道管が整備されたら、そこにはきちんとお金を出すシステムも出来上がっていき、「フリーライダー」と呼ばれる、いわゆる「ただ乗り」できないシステムをしっかりつくっていた。そのメカニズムが面白くて、それを研究して論文に書きました。

長谷川:旦那さんは土壌の研究者ですし、平井さんの研究内容も、丸家が山を守ってきたこととどこかつながっている気もしますが、それは意識されていましたか?

平井:私は最初、そこには気がついていなかったのですが、主人がそこに気がついて。「きっと、川上村の中奥でも、入会(いりあい)の山があり、水源を取っているはずだ」と言うので、役場に聞きに行きました。そしたらそのとおりで、日本でも同じように、入会の場所ができると、それを共有する仕組みができていくということも改めて知り、それらも含めて論文に残して、博士課程を修了しました。

長谷川:その後はどうされていたのですか?

平井:今度は、大学で新しいプロジェクトを手伝わないかと声をかけられました。文科省の助成金を活用した「農学部附属里山科学センター」という組織が設立され、野生鳥獣の管理プログラムをつくる取り組みが始まっていたんです。大学と地域が連携し、社会人向けに野生鳥獣管理の人材を育成するという内容で、私はコーディネーターとして関わることになりました。その後、新たに「里山コミュニティビジネス」をテーマにしたプロジェクトが立ち上がり、そちらにも参加しました。

長谷川:普通に過ごしていたらそんなに色々頼まれないと思うのですが(笑)。

平井:そうですよね(笑)。そのプロジェクトが終わる頃、今度は「雑草と里山の科学教育研究センター」を正式に立ち上げるので、コーディネーターとして残らないかと声をかけられました。そのまま野生鳥獣管理のプロジェクトにも関わりながら、研究の手伝いもしていました。
それから2〜3年経った頃、今度は宇都宮大学の学長から「寄付金を集める活動に人手が必要だ」と言われ、特命学長補佐として企業回りをしながら寄付金集めに取り組みました。そうやって、3年間ほど寄付金を集めているうちに、弟から連絡があったんです。

山を捨てられない。家業を継ぐために、再び吉野へ

平井:下の弟は、会社をしながら山の仕事を継いでいて、会社の方も忙しいから、山の管理まで手が回らない。このままだと、管理も行き届かなくなってしまう。そこで、「山をどうしようか」と、兄弟3人で家族会議を開いたんです。
代々引き継いできた山が、これだけ価格も落ちて商売にもならず、売っても赤字になる状況。そこで、「山を続けるか、やめるか」という話し合いをしたのですが、「やっぱり捨てられないよね」ということで意見が一致して。私に山の仕事をやってもらえないかと。

長谷川:あれだけ嫌で、台湾に飛んだのに(笑)。

平井:そうなんですよ(笑)。捨てられないと思い、最終的に帰ることを決めました。

長谷川:それは旦那さんも背中を押してくださったのですか?

平井:はい。主人からも「山は守らないといけない」と言ってもらいました。彼自身、山が好きで、土が大事だという研究をしてきたこともあり、「山を守るためにも、早く帰ったほうが良い」と勧められました。でも、私はすぐには決断できず、1年間くらい「どうしようかなぁ。帰ってもなぁ」と迷っていたんです。

長谷川:ここまで伺った平井さんの人生で、初めて迷いましたね。

平井:すごく迷った(笑)。今までは迷うことなく決めてきたのですが、山の仕事は全くの素人。自分に山の仕事ができるのかって。それでも、最終的に戻る決断をし、大学を辞めて、4年前の11月に戻ってきました。

長谷川:ご実家の家業は弟さんが継がれて17代目とのことですが、初代が林業を始めたのはいつですか?

平井:江戸時代だと聞いています。父はもともと家業を継いで林業をしていましたが、それだけでは厳しいと考え、叔父が吉野町で営んでいた製材所「丸商店」に、集成材の工場を叔父と共に立ち上げました。その後、工場が軌道に乗ると叔父に任せて、父は「丸産業」という建材販売会社を大阪につくり、その後、橿原に移転し事業を拡大しました。その後、父が亡くなると弟が事業を引き継ぎ、丸産業をグループ化して持ち株会社の「Maru‘s」を設立。現在は、上の弟がMaru’sの社長で、下の弟が丸産業の社長をしています。

長谷川:そして平井さんは、「丸林業」として入ったわけですね?

平井:丸林業は丸グループとは別で、先祖代々継いできた山を管理する個人事業主として続いてきました。法人化はしておらず、事業所として家の一部で運営されてきたんです。

長谷川:平井さんがそこを継がれたのですか?

平井:弟があくまで事業主なのですが、会社経営が忙しく、山の管理まで手が回らない。かといって、自分の判断だけで先祖代々の山をどうするか決めるには責任が重すぎると感じていたようです。

長谷川:確かにある意味、一番重いですね。

平井:本当にそうです。先人の想いが全部そこにあるから、それが重いんだと思います。弟たちも「捨てられない」という思いは強かったものの、どうすることもできないという現実がありました。そういった経緯で、私がその役割を引き継ぐ形になりました。

課題を言い出したらキリがない。吉野で感じた、厳しい林業の状況

長谷川:ここまで平井さんの半生を振り返りましたが、ここからは、この4年間の取り組みや、林業の課題について見えてきたことなどをお聞きしたいです。まず、川上村に戻って来て何を始めたんですか?

平井:幼い頃からよく山に入っていたとは言え、私は素人なので、まずは山に入り、木を見て覚えるところから始めました。それこそ、杉と檜の違いも分からない状態からのスタートで。最初に弟に頼まれたのは、所有する山の境界線をつけて欲しいということでした。今、山に入ってくれている人がいなくなってしまったら分からなくなるから。GPSと杭を持って山を巡り、境界を確認しながら木の見方を学び、少しずつ山に馴染んでいくという感じでした。

川上村植林地での平井雅世さん長谷川豪さん

長谷川:丸林業さんのチームは現在何人で動いているのですか?

平井:現在専属は2人。必要に応じて、別の事業者の方にも手伝ってもらっています。最初は境界の確認、次に伐採に同行しながら、少しずつこの林業の全般を理解していきました。山に関しては全くの素人なので、ひとつひとつ学びながらスタートしていきました。

長谷川:でも、何も知らないところから飛び込んでいくというのは、これまでの平井さんは何度も経験されていることですよね。

平井:そうなんですけどね。今回は、知れば知るほど、課題が多すぎるという感じです。木の成長は長期スパンなので、1日、2日と入って分かるものでもないし、4年経っても私はまだまだ素人から抜け出せない。周りには、長年やって来た大ベテランの方々ばかりで、父の時代から支えてきてくれた人たちが多いです。

長谷川:働いてくださっている方は、皆さん上の方ですか?

平井:番頭でやってくださっている方は、もうすぐ70近くになります。皆さん、私のことを幼い時から知っている人たちなので。

長谷川:林業の課題は具体的にはどのようなものですか?

平井:吉野林業は「経済林」ですが、かつてのように利益を生む仕組みが崩れている状況です。木を伐れる人が減り、手入れも行き届かなくなり、材の価格と労力が見合っていない。搬出できる道が整備されていないので、ヘリで出材しなければならず、経費が合わないんです。もう、課題を言い出したらキリがない状況。

長谷川:昔は木の価格も高かったので、経費を出しても回っていた。

平井:外材が入って来た時に急に価格が低迷してしまったんです。そこからどんどん悪循環になってしまって。まだ平成初期までは、もう少し材の価格も高かったし、経費としてかかるヘリコプターの輸送費も競合があり、安く抑えられていました。多少価格が下がったとしても、経費とのバランスが取れていたんです。吉野の山は急峻で、これまでヘリ集材に依存してきたため、現在では木の価格の半分以上がヘリの輸送費に消えてしまうのが現状です。

川上村杉桧の美林

長谷川:100年もかけて育てた木の半分の値段がヘリ代になってしまう。それは悲しい。

平井:そうなんですよね。今も林業を続けてこられている方々は、昔の時代が良かったのもよく知っている。だから、多くの人が「いつか木の価格が上がる」「時代が変わる」と期待しながら、具体的な策を講じないまま時間が過ぎてしまったのだと思います。そのうちに、1人抜け、2人抜け、どんどん辞めていく人が増えていく。「もう自分の代で終わり」と考える人たちも多くなりました。結果として後継者不足が深刻化し、今の厳しい状況が残っているのだと思います。

木を出すノウハウを残したい。川上・川中をつなぐ、新たな取り組みの兆し

長谷川:冒頭でもお話しましたが、今回のダイアローグに平井さんをお招きした背景には、辻さんが本業の製材業だけでなく、山に入って修行を始めたということがあります。その経緯を聞かせてもらえますか?

辻:もともと丸林業さんの木は知っていて、僕も製材のために取引をしていましたが、平井さんの存在は知らなかったんです。昨年の夏頃、偶然、KAWAKMI GATEWAYのコンビニで平井さんに会い、「林業をやっている」と聞いて驚きました。「最近どうですか?」と立ち話をしながら、先ほど話されたような問題についてお話をお聞きしました。
僕も吉野町で製材をしながら、これまで出会ってきた仲間たちと、木を発信する活動もしてきましたが、実際に山がよくなっている実感はなくて。木を扱って仕事をして、日々原木を見ているのですが、そこに至るまでの過程というのは製材する人たちにも見えていないことに気がつきました。原木がなくなれば、仕事も続けられない。そこで、「木を出すノウハウを学ばせてもらえませんか?」と、平井さんにお願いしました。

長谷川:製材しているだけではダメだと、どこか危機感を感じていた。

辻:はい。「100年先に残る山をつくる。災害に強いまちをつくる」というのを、当然進めているのだと思うのですが、きれいな山になっただけでは、きれいな木は出てこないんですよ。林業の根底には、「ここにある材を売って、生計を立てる」という生業があるから成り立っていて、それによって製材所も商売が成り立っています。しかし、川下の方もそれを忘れてしまって、育林や山づくりばかりに意識が向いてしまうと、肝心の山から木を出すことにはつながっていかない。
吉野林業の中心である川上村のような急斜面な地域では、木を伐り、搬出してくるための独特の技術があるはずで。今、それをやられているのは、60代から70代くらいの職人がほとんどで、彼らが引退すると木を出して来られなくなる。それはなんとしても避けたい。伐る技術だけでもなく、運び出すにも労力がかかる。その、出してくるノウハウだけでも残さないと、山には立派な木があるのに出せなくなってしまいます。
そこで平井さんにお願いして、本業の合間を縫いながら、週に数日でも山に通わせてもらえないかと相談したら、快く受け入れてくださったという流れになります。

長谷川:木を育てる人と、加工・流通を担う人はもっとつながっているのかと思っていたのですが、実際には別世界なのですね。

平井:そうですね。全然違う世界ですね。

長谷川:家業で製材所で働きながら川上にも関わろうという辻さんの姿勢はとても新鮮ですね。平井さんはどのように思いましたか?

平井:私もありがたいことだと思いました。これまで、林業の川上・川中・川下が分断されていて、市場を通じて取引するのが当たり前で、それぞれが独立して機能していたんです。でも、それを超えて、辻さんが入ってきてくれることで、川上から川下までつなぐ糸口になれば良いなと思って、すぐに「ぜひ」と言って、来てもらうことにしました。

長谷川:これまで林業の仕事は、縦割りで分業されてきたのが、辻さんのように異なる立場を横断して、自由に行き来するような生き方、働き方が増えると、林業のあり方や、もしかして木の伐り方も変わるきっかけになるかもしれない。

平井:そうですよね。そんな気がします。

長谷川:辻さんの話を聞いた時に、建築の世界でも似たような動きがあると思いました。例えば、建築家も設計だけでなく、施工や運営まで関わったり、材料をつくるところから自ら関わってみるという人たちが増えてきました。「この縦割りがおかしいのでは?」という素朴な疑問から、もっと自由にできるんじゃないかとまずは自分でやってみる。そういう動きが、特に僕より下の世代の若い建築家のあいだで生まれてきています。これはもしかしたら、色々な業界で起こっていることなのかもしれないですね。

長谷川豪さん

平井:経済が回っていて、それぞれが独立して機能している状態だと、なかなかできなかったということだと思いますね。

長谷川:考えなくてよかった。

平井:それに、林業の領域を越境して関わる雰囲気でもなかったと思うんです。でも、今は人手不足は深刻化して、「何かを変えなければ」と誰もが感じているものの、「どう変えていけば良いか分からない」というジレンマを抱えています。だからこそ、できることはなんでもやってみると、新たな取り組みが生まれるチャンスなのかもしれません。
例えば、吉野には「山守制度」という山の管理システムがあり、一本の道を通すにも、それぞれの山の所有者に掛け合い、承諾してもらわなければいけなかった。かつては材価が高く、所有者たちは1本でも多くの木を植えたいという思いから、道を通すことに抵抗があったんです。でも今は、道がなければ木を出すのに経費がかかるため、「どんどん道をつくってください」という流れになりつつある。これまでできなかったことが今なら実現できる時代になってきていると感じています。今は方向転換のタイミングで、新しい時代を拓いていける過渡期なのかもしれない。 そういう時に、辻さんのように異なる立場の人が関わることで、これまで分断されてきた川上と川中の関係もつながりが生まれて、より良い仕組みがつくれる可能性があると思っています。そういうことも簡単にできるような時代になっていくのかなって。「そうしないと続かない」という社会全体の空気も生まれ、林業の世界にも広がっていく。そのように流れが変わって来たかなとは思うんですよね。

丸林業平井雅世さん

長谷川:そうですね。辻さんはまだ始めたばかりとのことですが、まずは自分で伐れるところまで目指しているのですか?

辻:はい。そのつもりで、伐れるようになるまでは5年と言われています。僕は製材の仕事をしていますが、この地域では、木工に携わる人や、木や町が好きで活動を始める人が増えています。僕は、父親の世代から商売しているからここにいますけれど、外から来てくれて、使命感を持って、木材をキーワードに頑張りたいと思ってくれている人たちもいる。そういう人たちにも吉野の山に入ってもらい、伐れなくてもいいから知識を身につけ、発信していってもらえたらと思っています。そうすることで自然と人が増えいく。遠回りに思えるかもしれませんが、それが最善の策かなと考えています。

辻木材商店辻さん

杉と人間が関わってきた「時間の風景」を次の時代へ

長谷川:ここまでお話を聞いて印象的だったことが二つあります。まずは、これまで見られなかった川上・川中・川下の交流がなぜ始まっているかというところで、やはり平井さんが川上村から外に出て色々なご経験をされてから山に戻ってこられたからだと思います。さきほど山に関しては素人だと話されていましたが、むしろ一度外に出て、新しい視点で山に向き合っているからこそ、意識せずに「越境」できている。実はそこが重要な気がします。
あともう一つは、平井さんの「頼まれ力」。平井さんの半生についてさきほど聞いただけでも、旦那さんに頼まれ、学長に頼まれ、弟さんに頼まれ、最近では辻さんにも頼まれ。何かを頼みたくなるというか、この人ならやってくれるということをどんな場所でも感じさせられる方なのだろうなと。

平井:そうですか?そんなことを言われたのは初めてです。

長谷川:いやいや、ずっと頼まれてますよ(笑)。

平井:そう言われてみたらそうかもしれません(笑)。

。長谷川豪さん、平井雅世さん、辻さん対談

長谷川:このダイアローグの狙いの一つに、林業の高齢化が進むなかで、若い人に林業に興味を持ってもらうきっかけになればという思いがあります。やはり林業は多くの人にとって「遠い」存在なんですよね。例えば農業は都心に住む人たちにとっても比較的身近で、たとえば近郊に畑を持って週末だけ農業を始めるということもしやすい。でも林業は、きっと危険なイメージもあって、趣味でやるにはハードルが高く、なかなか気軽に始にくいですよね。
あと僕は吉野に9年ほど通っていますが、だいたい吉野町の製材所のコミュニティのなかにいて、他の業種の方と出会う機会も少なかったんです。「川上村の山はすごい」という話はずっと聞いていたのですが、近くを通って車窓から眺める程度で、現場に伺うことはできなかった。川下に留まっていた僕が川上に行けたのは、辻さんの新しい挑戦があったからで、こういう機会がこれから増えていくといいなと感じました。

杉桧の美林の中で。長谷川豪さん、平井雅世さん、辻さん他対談スタッフ

平井:最近、辻さんのおかげで、デザイナーや家具メーカーの方など、「林業を見せて欲しい」と言われ、外部の人を山にご案内する機会が増えました。これまで山と接点のなかった人たちが訪れてくれるようになり、自分達には見慣れた風景でも感動してくれる人が多いことに驚いています。それを見て、もっと多くの人に体験してもらうことが大事だと思いました。

長谷川:他の産業にない林業の圧倒的な魅力は「時間」だと思います。それはもちろん、木が育ってきた何百年という時間でもあるし、何世代もかけて山に関わってきた人たちの時間でもあるわけです。それは説明されなくても、あそこに行けばわかる。林業にしかない、特別な時間を味わえるわけです。吉野には、杉と人間の関わりによって生み出された「時間の風景」があって、そこに興味を持つ人はたくさんいると思います。

平井:私が吉野に帰って来た理由はきっとそこにあるんだと思うんです。先人たちの想いが、この木々にはずっと詰まっている。それはただの樹齢ではないんですよね。ここに住んで4年が経って、住めば住むほど、その重みを強く感じるようになりました。だからこそ、この場所を捨てることはできないし、守らなければならないと思っているんだと思います。
今日、200年、300年と育ってきた木々を見てもらいましたが、これから先の500年を見据えたとき、私がこの場にいるのは、悠久の時の流れのなかのほんの一瞬にすぎません。でも、その一瞬を誰かがつながなければ、次の100年、200年は存在しない。私にできるのは、その間に「やりたい」と思う人が一人でも二人でも育ってくれたら、そこからまた未来へとつながっていく。せいぜいそれくらいしかできないかもしれませんが、それが私の役目なのかなと思っています。

杉桧の美林の中で。長谷川豪さん、平井雅世さん、辻さん他対談スタッフ

長谷川:都市生活者は、日々の暮らしのなかで何百年というスケールの時間を感じることが全くない。あらゆることが効率重視、タイパ重視で、時間がどんどん切り刻まれて、みんな毎日急かされて完全に疲弊しているところがあります。だから大きな時間に飢えていて、何百年という林業的な時間に圧倒されたいという欲求はきっとあるんじゃないかなと思うんですよね。杉の伐採ツアーはエンターテインメント性がありますし、自然そのものの景色とはまた全く違う、何百年もかけて生み出された「時間の風景」を体験する魅力を、多くの人に知ってもらいたいですね。

辻さん

平井:ありがとうございます。すごく新鮮な意見。私たちからしたら見慣れた風景だけど、ここに来て感じていただけるだけで何か提供できる場所になるというのは新しい発見です。

長谷川:今回のダイアローグの収録には、初めてこんなに若いオーディエンスたちが来て、川上村の山を一緒に歩かせてもらいました。彼らは林業や山の価値を社会に発信したいという使命を持っていて、辻さんのように「越境」する若い人がこれから増えていく未来が想像できました。かつては縦割りでどこか閉鎖的だった世界が、こうやって交わり出すことで、そこに集まる人も変化してくる。時代の変化に合わせて変わっていく流れを感じることができて、僕も大いに刺激を受けました。今日はどうもありがとうございました。

長谷川豪さん、平井雅世さん、辻さん他対談スタッフ